ベトナムの写真として、何列ものバイクが連なっている写真を見ることがある。知っていたとはいえ、あのバイクには本当に驚かされた。空港からサイゴンリバーサイドに近いホテルに向かうため、バイクの大群の中を縫うようにタクシー移動する。バイクは三人乗りをしていたり、そのうちのひとりが小さな子供だったりする。後ろに乗っている女の子はとてもバイクに乗るような格好ではないエレガントな格好をしていたりする。GrabやGojekの配車サービスは車もあるだろうが、主にバイクの配車であることを知る。どの時間帯もバイクで溢れるが、この人たちがどこに向かっているのは結局分からなかった。バイクの大群を見ながらこれが新興国の活気なのだろうか。かつて憧れたその活気にはひたすら疲れしか感じなかった。
食事もあまり口に合わなかったものの、心地よい気候の中、プールサイドのルーフトップバーで過ごす時間はリラックスできる時間だった。また高いビルがあまりない街では、嘘みたいに真ん丸な夕陽が沈むところを見られる。
不思議なのは街の人が日本語で話しかけてくることだ。海外ではまず你好と声をかけられるものだ。中越の政治的な関係はあまり良くないことに起因するのか確かに中国人観光客は見なかった。
中国、フランス、日本、アメリカに翻弄された国、街にはコロニアル調の建築が見られる。この国はついこの前まで本当に大変な時代を過ごした国であることをWar museumに行くまで理解できていなかったと知った。ベトナム戦争にしても枯葉剤の影響にしても教科書1〜2ページで学んだ知識ぐらいしかなかった。私は実際に自分の目でみて感じないと理解できないタイプで、だから旅をする。
枯葉剤の英語がAgent Orangeであることも知らなかった。枯葉剤の影響は凄まじく、現地の人たちはもちろん、米兵や韓国・オーストラリア等の兵士にも影響を与えていた。そしてその影響は不妊や奇形という形で数世代にわたる。ベトナム戦争を撮影した世界中のカメラマンの中には多くの日本人従軍カメラマンがいた。沢田教一「安全への逃避」はピューリツァーを受賞した作品で教科書にも載っていた。石川文洋、中村梧郎の写真は戦争の被害を充実に追っていた。どの戦争も国益になると信じられて始まり、よく分かっていない若者が加害者兼被害者になる。
戦争の悲惨さが伝えられて久しい。いまも続くロシアによるウクライナの侵攻をなぜ人間は止められないのだろうか。